平和を求める声が上がっている。
戦争なんか絶対にイヤだし、民主主義の危機に目をつぶってなんかいられない。
だから声を上げる。主権者である国民が主役なのだと。
しかし、絶対にイヤな戦争と今なお対峙している人たちがいる。
否応なく、乞うてもいないのに、
「日本人」の平和と安全を守るために犠牲になっている人たちがいる。
それが同じ国民であるはずの、沖縄の人たちだ。
1950年に起きたキャンプジョウノの集団脱走事件、68年の九州大学の米軍機墜落事故など、福岡でも戦後しばらくは基地被害が多発していた。しかし、反基地運動の高まりを受けて、主なものでも56年にキャンプジョウノ、60年に芦屋基地、沖縄復帰の72年には板付空軍基地とキャンプハカタが返還され、ほとんどの基地の脅威は消えた。
一方、本土と反比例するように米軍基地の負担が増す沖縄では、現在、日本国土のたった0.6パーセントの土地に米軍基地が74パーセントも偏在し、その帰結として基地被害が相次いでいる。
それでいいのだろうか。
自分さえ安全なら、沖縄の人の安全はどうでもいいのだろうか。
内閣府の調査では、本土の8割をこえる人びとが日本に米軍基地は必要だと考えている。沖縄を犠牲にしながら、現状の安保と憲法9条とがセットになった“鉄壁”のシステムの中で「日本人」は守られて当然だと考えている。
一方沖縄では、名護市長選、衆議院選挙の沖縄県内4選挙区、知事選の各選挙でいずれも基地反対派が制し、地元紙の世論調査では、8割をこえる県民が米軍基地の県内移設に反対している。
いずれも圧倒的なNOを突きつけているのに、人口のたった1パーセントにすぎない沖縄県民の声は届くことがない。
平和を求める動きが盛り上がる今、そろそろ声を上げてもいいのではないか。
私たちは加害者でいることをやめたいと。
この面前の不公平を、知らんふりしてやり過ごす人間でいたくないと。
そのための方法はこれだ。
本土に基地を引き取る。
沖縄への基地偏在をもたらす前の、もともとあった場所にもう一度引き戻すことだ。基地にまつわる負担やリスクを“覚悟”をもって、引き取るべきだ。
そうしてやっと、他人ごとではない平和を描くことができる。
だから、私たちは引き取る行動をはじめる。
それが「日本人」の責任であり、回答だ。
2015年9月
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